1927年設立~1940年代
ジョルジオ・カルピ(1927-36在籍)
90年以上前のカピターノであるカルピの写真はほとんど現存していない。だが、給料を受け取らずにプレーした最初のロマニスタという逸話は有名な伝説だ。ヴェローナ出身のカルピは、カンポテスタッチョの一番最初のダービーでファンに認められてバンディエラと呼ばれた。引退後、1959年までクラブ幹部として様々な仕事に就いた。2016年にローマ名誉の殿堂入りを果している。
ダヴィド・デ・ミケーリ(1927-32在籍)
設立当時のローマはWMシステム(3-2-2-3)を採用しており、デ・ミケーリは最もキーパーの近くにいるディフェンダーだった。そして、トラステヴェレーノでありながらテスタッチーノの魂を体現している選手と呼ばれたバンディエラでもある。
アティリオ・フェラーリス(1927-34、1938-39在籍)
セリエA最多得点者シルヴィオ・ピオラは生前こう言った。「フェラーリスは本当に雄牛のようにタフなやつさ。ライオンと言い換えてもいいね。普段は寛大な男なんだけど・・・」
彼もまたデ・ロッシと同じボランチの選手で、同様の大きなキャプテンシーを持っていた。試合直前のテスタッチョのロッカールームでは、チームメイトに必ずある事を誓わせた。「いいか、ローマの勝利の為に、全員が最後の一滴まで全てのエネルギーを絞り出すんだ」そのエピソードは多くのロマニスタたちの心を揮わせた。
初期のローマアンセム(カンツォーナ・ディ・テスタッチョ)で彼はこう歌われている。『偉大なイタリア人のカピターノ、フェラーリスが俺たちの中盤にいるんだぞ』
ロドルフォ・ボルク(1927-33在籍)
オーストリア=ハンガリー帝国出身のストライカー。5年間というバンディエラとしては比較的短い在籍期間でありながらすぐにロマニスタたちのアイドルとなったのだという。157試合で106ゴールと、得点を量産した選手でもある。その中には1928年1回目のローマダービーを勝利に導いたゴールも含まれている。1930-31シーズンには、ローマ選手初のリーグ得点王に輝いた。引退後はローマで働き、60年代にはCONIで仕事に就いた。生涯独身で、長らく動脈硬化性疾患に悩まされて、1982年にカステッリ・ロマーニにある特別養護老人ホームで亡くなった。奇しくもその年、ローマはクラブ史上2度目のスクデットを獲得した。
フルヴィオ・ベルナルディーニ(1928-39在籍)
典型的なイタリア人といった甘いマスクのゴールキーパー、ベルナルディーニのキャリアはラツィオで始まった。しかし、1921年、ナポリ戦で4失点したショックから彼はストライカーに転向して大成功する。その後、インテルへと移籍。彼のリーダーとしての先見の目は確かで、プリマの若いストライカーの才能を見抜き、監督に推薦してトップチームに引き上げさせた。そのストライカーの名前はジュゼッペ・メアッツァ。現在ではカルチョのスカラ座、サンシーロの正式名称となっている。
ベルナルディーニは長い旅を経て1928年にローマに帰ってきた。その後10年間ローマのバンディエラとして286試合に出場、47ゴールを決めている(出場数には諸説あり303試合と284試合とも言われている)
メアッツァがスタジアムの名前になったように、偉大な魂はローマでも継承された。ローマのクラブハウス、トリゴリアは、その正式名称をフルヴィオ・ベルナルディーニと言う。
グイド・マセッティ(1930-43在籍)
ヴェローナ生まれのマセッティはエラス・ヴェローナでキャリアをスタートした。最初はミッドフィルダーだったが、すぐにゴールキーパーに転向した。ローマでは、非常に明るく元気の良い性格でチームメイトに愛されローマのカピターノとなる。1943年には選手兼監督として新しいキャリアを歩み、50年代の終わりまで何度も監督としてローマを率いた。
アメデオ・アマデイ(1936-38、1939-48在籍)
フラスカーティ出身のアマデイは15歳でテスタッチョにやってきて、その翌年にはディベンディッティの代わりにセリエAデビューを果たす。これがローマの最年少出場記録になっている。2012年に名誉の殿堂入りした。
1950年代~1960年代
ジャコモ・ロージ(1955-69在籍)
ロンバルディア出身のロージは、ソンチーノのユースで頭角を現わすと、1955年に400万リラでローマに加入した。彼もまたワンクラブマンで、引退まで15年を全てローマに捧げている。169cmの低身長のサイドバックでありながら体は筋肉体質で、そのバネを活かした空中戦に優れる『鉄人』だった。
それを物語るエピソードがある。1961年のサンプドリア戦でロージは故障した。しかし既に交代枠は使い切り、彼はそのままピッチに立つ事になった。2-2のまま迎えた仕合終了直前、コーナーキックからローマは決勝点を挙げる。それを決めたのが負傷していたロージだったのである。この闘志溢れるプレーの後、彼は『core de Roma』と呼ばれるようになった。これはロージの生涯2つしかないゴールのひとつ目だった。また『鉄人』は、2007年にトッティに塗り替えられるまでの最多出場記録保持者でもあった。
ジャンカルロ・デ・システィ (1960-65、1974-79在籍)
ローマ出身のデ・システィは17歳でトップデビューを果す。若きレジスタは10番を背負い、順調にバンディエラとしての道を歩んでいたが、経営難からフィオレンティーナへ売却を余儀なくされる。彼の黄金期のエピソードやアズーリ召集は全てヴィオラ時代のものである。現在僅かな動画で彼のプレーを確認する事は可能だ。メッセージを込めるかのように丁寧に出されるピンポイントパスはとても美しい。
ジュリアーノ・タッコラ(1967-69在籍)
ローマにいたのは2シーズンで41試合16ゴール(諸説あり)と短期間である。それでいながら、タッコラは記録よりも記憶でローマのバンディエラになった。ジェノアからやってきた快速のウインガーはすぐにロマニスタたちの心を掴んだが、その蜜月はある日突然悲劇で幕を閉じた。
1969年の初頭に彼は度々発熱を繰り返した。扁桃腺の手術を受けるも効果はなかった。そして同年3月16日、体調の戻らぬまま召集されたカリアリ遠征、試合前のロッカールームで心不全で息を引き取ったのである。
ペニシリン注射によるアナフィラキシーショックと言われているが、50年近く経った今でも本当の死因は解明されていない。しかし、この事故を教訓に、イタリアサッカー界では、選手に対する心臓の定期検診が義務付けられるようになった。
1970年代~1980年代
フランセスコ・ロッカ(1972-81在籍)
どこかでこんな言葉を聞いた記憶がある。『ロッカがローマに与えたのと同じものをロッカに与える事はとても難しい』これは、いかにロッカがティフォージたちの尊敬を集めていたかの証左に他ならない。
その驚異的な俊足から、Kawasakiのニックネームで呼ばれていたロッカだが、1976年のチェゼーナ戦で膝を痛め、その後のアズーリの一員としてルクセンブルグ戦に呼ばれ、3日後にローマに戻ったトレーニングで半月板を損傷した。その後、じん帯を断裂する大怪我を負い、フォームを取りもせないまま、27歳の若さで現役を退いた。
アゴスティーノ・ディ・バルトロメイ (1972-84在籍)
ニックネームはアゴ、もしくはディバ。優れたプレーヴィジョンを持ち、非常に正確なパワーシュートを持つ攻撃的ミッドフィルダーで、ピッチの上で常に怒り、ティフォージを鼓舞する姿は真のバンディエラだった。デ・ロッシのキャプテンシー、独創性、そういったメンタリティはまさにディ・バルトロメイのようである。「ぼくとダニエレはディバルトロメイになりたかった」そう語るのは、元ローマのアルベルト・アクイラーニだ。
ディバに足りなかったのは唯一スピードだけで、当時の監督リードホルムはそのウイークポイントをボランチに据える事でカバーした。ディバの全盛期にローマはスクデットを含む4つのタイトルを獲得した。それだけに1984年にリヴァプールとのチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)決勝で敗れた時の失望は計り知れない。その敗戦から丁度10年後の1994年5月30日、彼はカステッラバーテの別荘で拳銃自殺をした。晩年はひどいうつ病で、仕事にも困っていたのだという。
アルド・マルデラ(1982-85在籍)
アルド・マルデラの伝説は、そのほとんどがACミランで築かれた。スクデットに貢献した1978-79シーズンは左サイドバックでありながら、9ゴールを決めて、il terzino goleador(サイドバックストライカー)と呼ばれるようになった。ローマでは1982年から85年までの3シーズンをプレーした。決して若くはなかったが、サッカーに対する真面目な性格と経験に裏付けされた戦術眼で主力として活躍した。リゴーレの名手でもあり、累積で出場できなかった1983年のリバプールとのチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)の決勝でプレーしてれば、何が起こっていたかはわからなかっただろう。
2017年、娘のデジリーはローマのラジオ局に父との思い出を語った。
「父の葬儀の日、かつてのチームメイトたちが全員参列していたのを思い出します。父のことを悪く言う人を私は知りません」マルデラは3シーズンで、ローマのスクデットとコッパイタリア制覇に貢献した。彼が引退したとき、当時ローマの会長だったディノ・ヴィオラ氏はこう言った。
「ローマで子供たちにサッカーを教えてくれないか」
その申し出を受けて、マルデラはトリゴリアで下部組織のコーチを務めた。彼が指導した一人がローマの最高傑作、フランチェスコ・トッティである。
晩年、マルデラはローマ愛についてこのように語っている。
「私はミラノで生まれて、ミラノで勝利した。ローマには遅れてやってきたが、この街に残ろうと思ったのは、もう自分がミラノ人ではないと感じたからだ。今の私はローマ人で、ロマニスタなんだよ」
ブルーノ・コンティ (1973-75、76-78、79-91在籍)
近代ローマを代表するバンディエラの1人。74年のデビュー以降、ローマとジェノアを往復するシーズンを繰り返すも79年には見事スタメンを掴み、82-23シーズンのスクデットチームの主力として多大な貢献をした。マラドーナとジーコを足したようなそのプレースタイルからマラジーコの愛称で親しまれ、ナポリ在籍時のマラドーナから直々に「ナポリに来いよ。一緒に全てを勝ち取ろう」と声を掛けられたエピソードを還暦後のインタビューで明かした。同インタビューで、自分のスタイルはマラドーナに似ていると発言している。誰よりもファンを大事にする選手で、サインや写真を一切断らなかったのだという。
引退後はユースの責任者として再びローマで仕事を始めた。ちなみに現在もコーチライセンスは持っていない。ぼくの世代では、コンティといえば、どちらかと言うと息子のダニエレ・コンティの方が印象深い。ダニエレもローマのプリマ出身で、99年にカリアリに移籍してから15年、ロッソブルのカピターノとして幾度となくローマを苦しめた。それもまたバンディエラの血統なのだろう。
参考記事:ブルーノ・コンティ、父から息子への手紙
ジュゼッペ・ジャンニーニ (1981-96年在籍)
ローマの初代王子。彼のニックネームIl Principeは、ジャンニーニへの憧れを度々口にしてきたフランチェスコ・トッティに引き継がれた。1984-85シーズンに若干20歳でユヴェントス相手にファーストゴール。これがクラブとティフォージに認められて、彼は若くしてローマのカピターノとなった。2000年5月17日にオリンピコで引退試合を行うも、折しもラツィオのスクデットが決まった直後で、これに激怒したジャンニーニは、大勢のファンが集まった試合を45分で切りあげて、オリンピコのドアを破壊してフェアウェルパーティを終わらせてしまった。この怒りから、現地のローマとラツィオのライバル関係、そしてバンディエラという生き方を学ぶことができるだろう。
1990年代~
アウダイール (1990-2003年在籍)
ぼくのような3度目のスクデットを知らない世代にとって、アウダイールは本物のリヴィングレジェンドだ。ベンフィカを指揮していたエリクソン監督の口利きで1990年にローマに加入すると、13年間ローマに在籍、リーグだけで312試合に出場した。1996年から99年にかけて、彼はキャプテンマークを巻くことが許されたローマの心を持つブラジル人でもあった。2003年にローマを去るが、その功績から彼の背番号6は永久欠番となった。
アベル・バルボ 1993-98年、2000-02年在籍
アルゼンチンのストライカー、バルボのイタリアでのキャリアはウディネーゼで始まり、奇しくもデビューは89年8月27日のローマ戦だった。フリウリでは4年間で134試合65ゴール、その得点力が目に留まり、1993年にフランコ・センシ会長が180億リラでジャッロロッシに連れてきた。決して足が速いわけではなかったが、常に制空権を手にするヘディングと、裏への抜け出しの巧さから、ウディネーゼの4シーズンとローマの5シーズンの9年間常に二桁得点をマークした。また、96/97シーズンにはキャプテンを務めた。
マルコ・デルヴェッキオ 1995-2005年在籍
95/96シーズン、若干22歳のデルヴェッキオはマルコ・ブランカとのトレードでインテルからやってきた。そのシーズンに24試合10ゴールを決めると、センシ会長は70億リラで残りの保有権を買い取る。翌年カルロス・ビアンキ監督の酷いシーズンに低迷したクラブは、新しいルディ・フェラー、バルボを求めて、当時モナコに在籍していたトレセゲの交換要員としてデルヴェッキオをリストアップした。
その交渉が流れた98/99シーズンに、デルヴェッキオは意地の18ゴールを奪うが、それでも依然として移籍の噂は絶えなかった。そんな中、彼はゴールを決めた後にあるパフォーマンスをし始めた。耳に手を当てて、ティフォージに問いかけたのである。
「俺は何者だ?」「もっと歓声を聞かせてくれ」
そして彼は突如、ダービーで毎試合ゴールを決めるようになった。50年代のディノ・ダ・コスタの記録をアッサリと塗り替えるダービー通算9ゴールで、ロマニスタたちからの絶対的な支持を得るストライカーに成長した彼をファンは『スーペル・マルコ』と呼んだ。
マルコ・デルヴェッキオは、純然たるカピターノでもバンディエラでもない。しかし、永遠に『ダービー男』としてファンの間で語り継がれていくことだろう。
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