*この記事は2018年9月のものです。
様々なスポーツ選手の半生を本人が語るプレイヤーズ・トリビューン、一昨年のトッティ編も感動的でしたが(電子書籍版ロマ速で読めます)、今回のジェコ編はトッティとはまた別の感情を与えてくれます。
1992年から95年までの4年間、ボスニア紛争でジェコの祖国は戦火に包まれました。その混乱の時代に、ジェコは両親の愛情、サッカーをする喜びなどを知ります。それを読み、そこから自分が日本で当たり前のように幸せである事、平和が簡単に失われる可能性について、多くの事を考えさせられました。如月の拙文で多くを伝えられるとは思いませんが、何かを考えるきっかけになれば幸いです。また、本文では紛争とは書かずに戦争と表記しています。これは内紛という客観表現では不適当だと判断した為です。学問的表現とは異なるかもしれませんがご了承下さい。
なんだかんだぼくはやっぱりジェコが好きだ。ジェコに疑いを抱いたことはない。みなさんもジェコを好きになってくれると(ついでにローマもね)とても嬉しい。
ジェコ、幼少期
6歳のとき、祖国で戦争が起こった。
子供の頃って何が危ないかなんてよく判ってないものさ。何かが起こっているって気がついていたけどあまり深くは考えなかったよ。でも、両親は違ったと思う。たくさん悩んで、たくさん苦しんだはずだ。二人がいなければぼくの人生はなかっただろう。4年の戦争が終わると、あらゆるものが破壊されていた。街には何一つ残っていなかった。
それでも父は、ぼくをジェリェズニチャルの練習に連れて行ってくれた。片道一時間以上かけて、バスを2本乗り継いで、路面電車に揺られて通ったのを覚えてる。スタジアムは当然壊されていたから、クラブは近くの高校のグランドを借りて練習していた。父は働きながら毎日ぼくの送り迎えをしてくれたよ。迎えに来たときはいつもバナナをくれた。最悪の時期でさえ、両親はぼくと妹に全てを与えようとしたんだよ。
誰もが夢を抱くだろう。
だけど、国を再建しようって時にあれこれ考えることは難しい。ぼくもそうだった。初めて警報サイレンの音や危険を感じずに練習を終えたとき、心から幸せだと感じた。あのとき夢があったとすれば、ジェリェズニチャルのトップチームでプレーしたいと思ったかな。当時はただ父親の誇れる息子でいたいと考えていたよ。家族の為に本当に必死で働いていたからね。
プロへの道
17歳のある日、ぼくは父と地元のショッピングセンターにいた。その日に何を買ったのか覚えていない。突然電話が鳴った。監督からだった。「明日のプレシースントレーニングからトッブチームに加わりなさい」って、そう言われたんだ。買い物のことなんて忘れて当然さ。すぐに父に伝えると、もう完全にパニック状態だったね。トッブチーム?え?誰が?どうして?いつ?お前がか?嘘だろ?みたいなさ。
父と一緒に頑張ってきたから、あの瞬間を二人で共有できたのは最高の想い出だよ。だけど、まさか自分が後にドイツや英国、さらにはイタリアでプレーするなんて想像すらできなかった。当時のセリエAといえば、ヨーロッパ究極のリーグなんだ。90年代のイタリアにはたくさんの名選手がいたよ。ぼくは特にシェフチェンコが好きだった。ユースチームのコーチは顔が似てるからってぼくをシェフチェンコと呼んでいた。そのニックネームがとても好きだった。シェヴァはぼくのヒーローだった。
シェヴァとは2008年、ヴォルフスブルク時代に一度対戦したことがある。レンタルでミラノに戻っていたんだよ。入場前にサンシーロのトンネルで彼に話かけた。「試合が終わったらユニフォームを交換してくれませんか?」彼はこう言った。「オーケー、そうしようか」
この話には続きがある。
ハーフタイムでロッカールームに引き揚げようとしたら、まさかシェヴァの方からやって来てユニフォームを渡してくれたんだ。試合後まで待たずにだよ!それに、シェヴァはぼくがどれだけ尊敬してるのか話を聞いてくれたよ。あれは一生忘れることのない特別な瞬間だ。
ローマ
不思議な気持ちなんだけど、ローマという街はまるで家みたいな感覚なんだ。サラエヴォとボスニアは心の第一位だけど、その次がローマだよ。ここで不自由なく過ごせていて、それは家族だって同じ気持ちだ。セリエAでプレーする事になってイタリア語を覚えて、たくさんの想い出が増えたよ。
よく訊かれるのはイングランドとイタリアのサッカーの違いかな?イングランドはスピード!スピード!スピード!、イタリアは戦術!戦術!戦術!って感じだ。セリエAの3年間で、自分でも驚くほどサッカーを学んだよ。
ローマに来て一番の驚きは、フランチェスコ・トッティというサッカー界の伝説的選手を友人と呼べるようになったことだ。少しの間だったけど、トッティとプレーしてぼくのサッカーは変わった。彼のおかげで多くのゴールが生まれたんだ。キャリアのもっと早くにローマを知りたかったとすら思う。彼はピッチのあらゆるものを見ていた。そして、ぼくが全く想像もできないスペースにボールを出してくるんだ。イタリアに来たのは大正解だった。サッカーについて多くを学べたからね。
昨シーズンのチャンピオンズリーグは凄かった。
バルセロナ戦のヴィデオをいつか子供たちに見せてこう言うだろう。「この試合を見なさい。決して諦めちゃいけないんだよ」って。ぼくたちはカンプノウを4-1で落とした。ピッチからその様を眺めるのはまるで死んでるようなものさ。
だけど、リターンレグで早々に得点する幸運があった。開始5分、6分そこらで決めたと思う。声援はぼくたちにエネルギーを与えていた。後半に入り、ピケに倒されてペナルティキックを得た。蹴るのはデ・ロッシだ。細かく芝を踏み、鋭く振り抜く。キーパーは手を伸ばしたけど、デ・ロッシのキックはそれじゃどうにもならない速さだった。血がたぎるような感覚を覚えた。もしかして、ぼくたちならやれるんじゃないかって思い始めたんだ。
その後は獣のようにがむしゃらに走った。ぼくたちは叫んでいた。さあ急げ、行こう!やってやるぞ!とうとう最後にはマノラスがゴールを決めた。信じられなかったよ。
翌日、試合を観直すと、ぼくらは5,6得点獲ってもおかしくないプレーをしていた。バルサのようなメガクラブに対して、マグレじゃないと言うのは不思議な気持ちだけど、事実ローマはほとんどチャンスを与えなかった。ぼくたちは戦術的に完璧だった。戦術!戦術!戦術!さ。終わったと思っていても蘇る。マンチェスターシティでもローマでも起こり得る。それがサッカーというものなんだ。
夢
32歳になって、この後どんなキャリアを送るのかわからない。
だけど、ボスニアをもう一度国際大会に連れて行きたいと思ってるんだ。初めてワールドカップに出場した2014年のマラナカンのアルゼンチン戦。あのとき、ぼくたちは夢が叶ったと思った。子供の頃、大好きなサッカー選手は全員外国人だった。でも今はサラエヴォに帰ると、ボスニアの選手たち、特にピャニッチのような選手たちについて話せる。それは心からぼくを幸せにするんだよ。
戦争が終わって、ぼくたちはたったひとつの夢を持つ世代の子供だった。平和の中でサッカーをしたい、それだけを願っていた。今ぼくはサッカーを続けていて、幸せを見つけることができた。これがぼくの人生なんだ。だから、ぼくは一生懸命サッカーがしたいし、観れる試合は全部観たい。
たまにリヴィングでセリエAやプレミアを観ていると妻がやって来てこう尋ねる。
「あなた、またサッカーなの?もう十分じゃない?」
ぼくはただ微笑むだけ。
でも、今こそ彼女はその答えを知っておくべきだ。
十分じゃないかって?ああ、そうさ。
ぼくはまだまだ充分じゃない。
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