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バンディエラという生き方~ブルーノ・コンティ

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ローマ速報にも歴代バンディエラやカピターノを特集した常設ページがある。バンディエラという言葉抜きでローマを語ることはできない。そしてバンディエラは常にローマのプリマヴェーラから誕生する。今回のローマ速報は、現役時代から人生のほとんどをローマで過ごしてきたバンディエラ、ブルーノ・コンティの物語をお伝えしたい。


2020年11月28日、この日を遡ること30年前の1990年11月28日、ローマの一筋のバンディエラ、ブルーノ・コンティはスパイクを壁にかけた。UEFAカップのボルドー戦で、カルロス・ビアンチ監督は試合残り10分のところでコンティを投入した。それがマラジーコ(マラドーナとジーコに似ていたコンティのニックネーム)最後の試合だった。

コンティ「父の目には喜びの涙、そしてオリンピコは轟音に包まれていた」

そしてこう付け加えた。

コンティ「あの日のスタディオ・オリンピコの咆哮をまだ覚えている。ロマニスタたちが私の名前を叫んでいたのを覚えているんだ。あの最後の10分に感謝している。その日、私はそのチームにもう自分の居場所がないと理解した」

ブルーノ・コンティは1974年のトリノ戦で待望のデビューを果たした。

コンティ「彼の7人の子供のうちの一人である私がローマに入ると告げたときの父の顔を私は一生忘れないだろう。私はその日、父を人生で最も幸せにしたんだよ。私は父の愛したクラブゆえにローマでプレーしようと思ったんだ」

コンティ「トッティの映画は観たよ。私の現役最後の苦悩したシーズンを思い出した。そのシーズンの終わりに私は、他のクラブで現役を続行するか、それとも自分の名を永遠にローマに刻むのか、ジレンマに直面した。他のクラブからたくさんのオファーが届いていた。しかし、私はローマのユースでサッカーを始めて、ニルス・リードホルムのチームでデビューした。ジャッロロッシのユニフォームを着て17年過ごした後、他の色のユニフォームを着ている自分を想像することが出来なかった。だから引退したんだ。私はジルベルト・ヴィティ(ディノ・ヴィオラ会長の側近で、ローマのスクデットやマーケティングに大きな貢献をした)と一緒にクラブを去ったんだ。それは正しいことだった。私はローマに生まれたんだ」

そして引退後、監督の道を選んだ。

コンティ「引退後、監督になろうと思い、アクアアセトーサとコヴェルチャーノでコーチライセンスの受講をしたんだ。その後ローマから連絡があり、ダヴィデ・モスカルデッリやダニエレ・デ・ヴェッツェ、マヌエレ・ブラージといった79/80年組の育成を任せてくれたんだ。天にも届くほど幸せだったね。ただ現役時代良い選手でも、コーチングに関しては一から学ぶ必要がある。それは私にとってもそうだった。その後、エルメネジルド・ジャンニーニ(初代プリンチペ、ジュゼッペ・ジャンニーニの父)がクラブを去った後任としてユースセクターの責任者となった。監督の仕事は楽しかったが、ローマにノーとは言えなかった。この仕事を始めて、私は没頭して大きな満足を得たのさ」

コンティ「そして私は今もここにいる。今もこの色を身に着け続けることができて光栄だ。なぜならばこれがローマだから。ローマに不満など持たない。ローマとはただ愛するもの。特にローマで生まれ育った私のような人間にとってはね。この素晴らしい家で暮らしてきたことを、私は誇りに思っているのさ」

<了>

バンディエラについてはこちらもどうぞ。

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