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【全世代のロマニスタ必読】受け継がれるロマニズモ、90年代のローマを知ろうよ!

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先日ローマ速報のyoutubeで、ロマニスタから送られてきたダンボール箱を開けてみたという動画を配信して、その中で90年代はローマにとって不遇の時代で、今のロマニスタが後追いしたくても取っ掛かりになるトピックが少ないという話をしました。逆に言うと、ここらへんは実際に当時を体験したロマニスタでなければ語れないという事です。この頃は初代プリンチペ、ジャンニーニがいて、経営者が代わり、なんと言っても16歳のトッティがデビューした頃で、ウィキペディアに特記すべき事は少ないのだとしても、そのいくつかの物語はローマの一里塚であり、それをローマ速報が語り継いでいきたいという気持ちがあります。

ということで、今回はこの動画で如月に大量のローマグッズを送りつけた(失礼!)lcke女史とコンタクトを取り、当時のローマの雰囲気、それも日本人視点からのローマという非常にレアなお話を訊くことができたのでご紹介したいと思います。


ローマと出会ったのはいつ頃だったのでしょうか?

lcke:特別に応援するようになったのは91-92シーズンから。もちろんクラブとしては知っていたし、ブルーノ・コンティは代表で見て好きなタイプの選手でした。

応援するようになったきっかけは?

lcke:一番好きな選手がローマに移籍したからです。

当時のローマはセリエAでどのような立ち位置だったのでしょうか?

lcke:92年から94年頃の話ですが、チームにトラブルが多く、なかなか快勝できませんでした。例えば会長(チャラピコ)は政界汚職で刑務所にいて(勝ったらロマニスタが塀の外で「勝ったよー」と騒いで報告してた)、FWのアルゼンチン代表、クラウディオ・カニーヒァはコカイン疑惑。そんな話ばかりなので、「選手はインタビューに応じるの禁止」、「練習場は関係者以外立入禁止」、「練習も非公開」でした。チームは負債もあり、93年春にはクラブがなくなるのではという話まで出ていた。トリゴリアも抵当に入っていたし、負債の清算ができなければクラブ解散、と。ロマニスタはトリゴリアへ行っても、入待ち・出待ちのみで練習は見られず、サインを貰ったり写真を撮ったり、ちょっと選手と話したりするだけでした。

当時のローマで中心人物というと誰がいましたか?

lcke:カピターノだった10番、ジュゼッペ・ジャンニーニ。愛称はプリンチペ、ペッペ。元アズーリ。トッティのアイドル。プレイも優雅でしたが、この人当時やたらキレイなお兄ちゃんで、間近で見たロマニスタのあんちゃんが「わあ…ベッロおおおぉぉ」ってつぶやいてました。でも、今から考えると辛い時代のカピターノだったんだなあと思います。

*lcke氏撮影。『神々しい初代プリンチペ』転載はお断り致します。

当時トッティはまだ10代でしたが、現地メディア、ローマファンからどのような扱いだったのでしょうか?

lcke:93年に彼のデビューをブレッシャで見ました。その日の新聞に「16歳の高校生がデビューするかもしれない」と載っていて、そのとおり、交代出場でデビュー。ウルトラスのおにーちゃんたちは「行け、トッティーノ」とか「バンビーノ!」とか叫んでた。デビュー2戦目には早くもトッティの歌ができていました。Totti Golしか言わない歌詞だけど。93、94、95年と見ましたが、まだティーンだったので「若いけどめちゃくちゃうまい」くらいな言われ方だったと思います(ロマニスタの間ではそれ以前からプリマに“飛び級”してる上手い子がいる、というのは知られてた)。私や友人も「将来この子がカピターノになったら(or代表になったら)“この子のデビュー見たぜー”って威張れる」って冗談言うてました(笑)LA ROMAではなかなかそこまで大きくは取り上げられなかったけど、もっと砕けたファン雑誌では盛り上がってたと思います。

スタジアムの思い出など訊かせてください。

lcke:初めてオリンピコに行く前に、サンシーロとデッレアルピに行ったんだけど、どちらも全然好きになれず、オリンピコはしょっぱなから心なごむ感じでした。あのスタジアムの上部のデザインが王冠のようで、夕暮れにすごく美しかった。そしてクルヴァスッドの美しさ。発煙筒、旗の波、地響きのような声、それから当時のアンセム「Grazie Roma」。私はたいていトリビュナ・テーヴェレ・ラテラーレに陣取ってましたが、周りのロマニスタもフレンドリーな人ばっかりで、たくさん話しかけてくれたり、写真を撮ってくれたり、本当に楽しい観戦でした(これで試合に勝てりゃね…)。本当にオリンピコは大好きです。アウェイの時はウルトラスに混じったこともありましたが、女の身ながら別に危ないとは思わなかった。コインとか降ってくるけど(笑)。まあ帰りに「ロマニスタはこっちだ!」って警察にひとまとめに護送車に乗せられたことはあるんですが、その護送車がホームチームウルトラスの襲撃を受けて、ガラスが全部割れて降ってくる中を疾走、ウルトラスのお兄ちゃんが「バッグを頭に乗せて床に伏せろ!」って教えてくれえるという、ちょいスリリングな体験もしました。面白かったです。バス代が浮いたし(笑) あと、「子供の時に初めて買ってもらったマフラーを10年使ってる」みたいな、汚れてクタクタになったのを巻いてるのはすごくかっこいいと思いました。きれいなのしか持ってない自分が残念でした。

トリゴリアの思い出、エピソードはありますか?

lcke:今は交通手段がどうなってるか知らないけど、当時はずいぶん歩きました。これも今は知らないけど、当時はのどかな野道でした。先程話したように練習は見れなかったのですが、門の前でロマニスタたちと話すのがすごく楽しかった。撮った写真を見せると大盛りあがりするので…。そのうち選手が車で来始めると、慣れた人が停めてくれるので、サインもらったり写真撮ったり。現役選手だけでなく、コンティが来たりするので「ブルネット!」と盛り上がりました。

トッティや他の選手たちの小ネタなどあれば訊かせてください。

lcke:トッティはまだ高校在学中で、アウェーで日曜の試合に出ると当日はそのまま宿泊することがあり、月曜の授業に出られなくなるとか、キャンプ中勉強していたとか、マンマの運転でトリゴリアに送ってもらってたとか、いろいろどうでもいいエピソードがあります。初ゴールしたらバイクを買ってもらえるとかもあった(実現した)。当時のGKチェルヴォーネ、写真だと怖い顔なんですが、生で見るとすごいかっこよくて驚いたなあ。

*lcke氏撮影。『1993年、お母さんに送ってもらったトッティ』転載はお断り致します。

*lcke氏撮影。『翌年車を購入したトッティ』転載はお断り致します。

都市としてのローマのどこに惹かれたのでしょうか?

lcke:ゆるくてあたたかくて雑多な感じで取り澄ましてなくて、本当に大好きな街です。北の方ではなかなかそんな感じはなかったので。私は決まった安い宿があり、決まった安いトラットリアがありました。遠征する時も荷物を預かってもらって、身軽に行ってはまたローマに戻ってきてたので、まさに「ホームタウン」でした。やさしくて楽しい人ばかりだったなあ。毎日うろうろしていると、サポーター層の違いがわりとはっきりわかりました。商店主や、ちょっと高めのお店の従業員らはラツィアーレ。屋台のお兄ちゃんやブルーカラーはロマニスタでむちゃくちゃ気さく。今もそうなのでしょうか?

現在のローマ(クラブ)、もしくは日本のロマニスタに一言お願いします。

lcke:ローマについてはごめんなさい。今のチームをほとんど知らないので…。浮気したわけではないです。サッカー自体を当時のように見なくなったので…でも「ひいき」という点では今でもローマです。でなかったらTwitterでロマ速をフォローするわけがないです。

91年頃、日本人のロマニスタコミュニティは存在していましたか?

lcke:おそらく、いいえ。当時の日本はJリーグができた頃で、海外サッカーもそれにつれて突然人気が出たという頃でした。WOWOWが週1本だけSerieAを放送してました。徹底してミラン贔屓で。ネットもなかったし、コミュニティと呼べるほどのものはおそらくなかったのでは?ネットがない時代、見ず知らずの人がグループを作って何かを応援するというのは、郵便を介してしかなかったので、もしやるとしたらサッカー雑誌で「会員募集」をして、会費をもらって会報を送るとかでしょうが、ロマニスタのそういうグループはなかったと思います。唯一、ジェノヴァのはあった「かも」しれない。日本人選手がいたから。でもその程度だと思います。

自分でコミュニティを作ろうとは?

lcke:ほんの一瞬ROMA CLUB GIAPPONEを作りたいという気持ちも抱いたけど、あの「生まれついてのサポーター」みたいな向こうの人と違い、日本では「日本人選手がいる間だけ盛り上がる」とか「好きな選手がいる間だけ盛り上がる」とかになりがちで、それはすごく失礼なんじゃないかと思ったので5秒で諦めました。


そして、その他様々な当時のリアルなエピソードについても語って頂きました。

■93.11月のクルヴァスッドの横断幕

16anni per tornare in Europa 324minuti per uscirne(ヨーロッパに戻ってくるのに16年、出ていくのに324分) UEFAカップで敗退したラツィオへのイヤミw (もう大好きw)

■オリンピコで覚えた歌に、L’arca di Noèの替え歌があります。

Vincera’ la Roma vincera’E la Lazio in B, presto tornera’

こんなん笑う!いいなーロマニスタ。

■訃報記事

イタリアで人がなくなった時に出す死亡広告のパターンを踏襲して「みなさんが愛したラツィオは亡くなりました。葬儀は…」っていう広告のコピーをローマショップのおばちゃんにもらったことがありますw 部屋に貼ってたんですがぼろぼろになって捨ててしまった。残念。(どっかにまだコピーあるかもしれない…)

■コッパイタリア決勝(93年6月)

第1戦トリノでの試合を0-3で落としたローマ。今のローマに3点差を跳ね返すことは難しいと誰でも考える中、第2戦のオリンピコで、ロマニスタは「必ず勝てる」と信じたかのようなすさまじい大応援を展開。選手もこれに応えて粘りに粘り、なんと5-2。合計5-5だがアウェーゴール2倍のルールのためトリノの勝利。ロマニスタは誰も帰ろうとせず、トリノがカップを掲げた時も“Grazie Roma”を大合唱して選手を讃えた。ジャンニーニは泣きながらこう言った。

「ロマニスタのローマへの変わらない愛がある限り、このクラブでプレイすることを夢見る僕がいる。自分のためよりも、この人達のために勝つんだ」

 

ぼくたちが今ローマを応援している事が、未来のロマニスタにとって無形の財産になるかもしれない。そんな可能性を視野に入れながら生活することは誰にとっても不可能に違いないが、ぼくたちがローマを応援するということは、時代の生き証人になるという側面があることを覚えておいて欲しい。ローマ速報はトッティ登場以前よりローマを支持してきたロマニスティを完全にリスペクトしているし、彼らの愛情はどこかで自分の活動に繋がっているはずだ。

会長が収監されていたり、ロマニスタが労働者階級に多かったり···どの話も新鮮で、今でも色褪せずに美しく、当時を知らない自分にとってとてもうらやましい。いや、ぼくが90年にロマニスタでも果たしてこんな行動力を発揮できたものだろうか?多分無理だと判っているがゆえにひたすら羨み憧れる内容のインタビューとなった。そして最後のジャンニーニの言葉をぼくはずっと心に留めて生きていきたい。

「ロマニスタのローマへの変わらない愛がある限り、このクラブでプレイすることを夢見る僕がいる。自分のためよりも、この人達のために勝つんだ」

今もロマーノたちがそうであることを願いながら、変わらない愛と情熱でぼくはこれからもローマを応援していきたいぜ!


未視聴の方(といわずみなさん)ぜひどうぞ↓

【おまけの質問】なぜユヴェントスやインテルの雑誌も持っているのですか?(笑)

lcke:ユヴェは、私が好きな選手がローマの前に在籍していたので、その年だけ雑誌を買いました。でもユヴェには全然入れ込めなかった。インテルは…当時、ミランが異常に強くて一人勝ち状態な上、マスコミもアルビトロもミランびいきだと言われてて、私はすごくアンチだったんです。なので必然的にインテルの方を応援。あとインテルには、代表で見てちょっと好きだった選手もけっこういたので。ゼンガ、ベルゴミ、セレーナ、ベルティなど。ビアンキもだったかな?

コメント

  1. 産まれた時からロマニスタ より:

    本当に同感です。
    めちゃくちゃ羨ましいですね!
    そして読んでいてその情景が浮かんでくるくらい素敵なインタビューをありがとうございましたm(_ _)m
    ジャンニーニの言葉は、ローマを応援する私達の心も熱くさせますね!そして、今のオーナーがテーマに掲げている物と同じなので嬉しくなりました!
    最後に…
    出てくる名前がレジェンド過ぎます!😂😂
    長文・駄文失礼しました。

    • 如月/kisaragi 如月/kisaragi より:

      産まれた時からロマニスタさん
      出てくる名前がレジェンド過ぎますよね笑
      でもペッレグリーニやザニオーロ、タミー・エイブラハムなど、現在何者でもない彼らが30年後ヨーロッパサッカー史のレジェンドになっているかもしれないので、それを考えると今のローマをもっと応援したいなと思いましたw

      ジャンニーニの言葉も熱いですね!

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