2017-18シーズンのナインゴランはイタリア最高のボックス・トゥ・ボックスプレイヤーだった。それなのに、その年のベルギー代表から漏れて、悲願のワールドカップ出場とはならなかったのは、それは少なからず彼のライフスタイルが影響していたからだ。
喫煙、飲酒、ナイトライフ···ローマという情熱の都市に受け入れられた男は、夜遊びを指摘されても悪びれずにこう言う。
「ディスコで酔ってるときに女が寄ってきたらそりゃどうにかなるってもんだぜ」
クラブは彼の貢献を重視して、多くのスキャンダルと歯に衣着せぬ発言を容認してきた。しかし、その王様のような日々はローマの財政難と共に突如終焉を迎えた。バルセロナを3-0で破った黄金のチームはモンチSDにより解体されてしまったのである。
現在、ベルギーのアントワープでプレーするナインゴランも33歳になった。家族の病気、インテル、カリアリのプレーを経て、彼は大人になったように見える。かつて「33歳でとっとと引退するぜ」とうそぶいた悪童は当時の自分を振り返った。
ナインゴラン『おう、ローマにゃキャリアで最も明るい未来が待っていた。クラブにも愛着があっただけに離れるのは辛かったぜ。人生には選択がつきものだ。だがよ、今にして思えばよ、ありゃ間違った選択ってやつだったぜ。俺は噓をつきたくないから、その時言いたいことを本心で話していたら、インテルでは最初は良かったんだけど最後は揉めたわな」
ネラッズーリで、あなたを欧州トップクラスのMFに育てたスパレッティからコンテに代わって難しくなりました。
ナインゴラン「コンテとは何の問題もなかった。俺はポジションのために努力したが彼は別の選択をしたってだけ。俺はそいつを尊重するよ。プレーできないのは監督のせいだと言っちまうのは簡単な話だからな。でもコンテは俺にとってもミラノにスクデットを持ち帰った重要な人物だぜ。アッレグリ、スパレッティ、リュディ・ガルシア、コンテ…全員何かを与えてくれた。ピオリ、イアキーニもそうさ。基本的に新しいことを学べる限りはどの監督も重要なんだ。俺にとってはね」
前節は『あなた』のスパレッティと『あなた』のローマが対戦しました。
ナインゴラン「まあな。ローマは引き分けに値したよ。ナポリはファッキンくだらない判定のリゴーレで先制したけどさ、その後ローマが追い付いて当然のように勝点を持ち帰った。対等な試合だったと思うね。ナポリとローマはとても似ている。ファンが常に大きな夢を抱き、期待が高い情熱的な場所だ。ゆえにバランスを欠くと情熱だけが大きすぎて、選手にプレッシャーをかけ始めてしまうんだ。まあ、俺はそいつをジョークだと思って受け流していたが、他の選手はそうじゃなかったね」
あなたはカリアリから移籍するとき、ナポリのオファーを蹴ってローマに行きました。その理由は?
ナインゴラン「ナポリもローマも美しい都市で重要なクラブだ。ただ、俺はカリアリファンに敬意を表してローマを選んだ」
当時、自分がイタリア最高のMFだと考えていましたか?
ナインゴラン「そうだな、まあ当時俺には多くの競争相手がいたと思うよ。ピャニッチ、ハムシク、チームだったらデ・ロッシやストロートマンもそうだな。ハムシクはゴールを決める印象でシーズン15ゴールに到達していた。PKキッカーでもあったしさ。俺にはトッティもデ・ロッシもいたのに、いつ彼らを超えたってんだ?俺は当時から、自分のプレーをチームメイトを引き立たせるためだと話していた。俺にとって自分がリーグ最高の選手かどうかは重要じゃなかった。重要なのは常にチームなんだ」
それにしても当時のローマがタイトルと無縁だったのは信じられません。
ナインゴラン「当時のローマがユヴェントスに対抗できていればワンチャンあったな。でもあの頃のユヴェントスは無敵だった。今も強いけど、当時は絶対的な強さだった」
あなたはシュート精度の高さも持ち味の選手です。ローマ時代にトッティとシュート練習で競い合ったことは?
ナインゴラン「(爆笑)いやいや、時には俺が何度か勝ったこともあったかもしんねえけどよ。最終的に最高のゴールを決めるのはいつだってトッティだったぜ!フランチェスコのテクニックは今でも印象に残ってるんだ。確かにお互いシュートは上手かったかもしれないが、俺と彼の違いははっきりしてた。フランチェスコが持って生まれた才能だったのに対して、俺は時間をかけて才能を開花させたのさ」
<了>
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