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【カルチョ狂想曲】ディノ・ヴィオラと1981年のオフサイド

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ローマは泣かず、これからも泣くことはない。なぜならば、それは弱者の行為であり、強者は絶対に泣いたりなどしないからだ。

これはディノ・ヴィオラ元ローマ会長の有名な言葉。今日は彼がこの世を去って30年の節目である。こんな日は、古いローマを学ぶ良い機会だと思う。

彼が会長を務めた11年で、ローマはスクデットと4度のコッパイタリアを獲得した。「ディノ・ヴィオラが会長になった時、ローマは偉大で魔法のような存在になった」とは、メッサジェッロの記者ピエトロ・メイの一文。ファルカン、プルーゾ、ブルーノ・コンティ、ディバルトロメイ、タンクレディ、彼らは皆、ヴィオラを会長ではなく、父のように慕っていた。投資家や石油王がサッカーで金を稼ぐ時代となり、会長と選手のある種の親密さは今のイタリアからは失われた光景である。

1981年、ユヴェントスはホームのスタディオ・コムナーレで、1ポイント差で真後ろを追走するローマと対戦した。非常に緊迫した試合が続くも、後半75分、ブルーノ・コンティのクロスにプルーゾが頭で合わせて、ディノ・ゾフの守るゴールの閂を外すことに成功した。これは誰が見ても明らかなゴールに思えたが、ラインズマンを務めたサンチーニは、ローマの選手のオフサイドを指摘して旗を上げていた。

その日イタリアではストライキがあり、RAIのテレビカメラはこのオフサイドを正確に映してはいなかった。これが大きな論争に発展したのは想像に難くない。

結局、ユヴェントスは、ローマに2ポイントの僅差で19回目のスクデットを獲得した。ディノ・ヴィオラ会長はこの”僅差”を、直接対決のオフサイドになぞらえて『センチメートルの懸案』と呼んだ。

この発言を快く思わなかったユヴェントスのジャンピエロ・ボニペルティ会長は、ヴィオラにプレゼントを贈った。箱の中身は定規、文句があるならそれで測ってみろというイタリア人らしい無言のメッセージである。

ヴィオラはその物差しをユヴェントスにメッセージを添えて送り返した。

それが必要なのは君のほうだろう。私は機械技師だからね。

学生時代、工学を専攻していたヴィオラは、後に機械部品の会社を立ち上げた。その後、1971年にローマの会長だったガエターノ・アンザローネの元で仕事を始め、クラブが財政難に陥った1979年にローマを譲り受けた。機械技師は、ミリ単位まで精密さを求める仕事であり、彼にとってはキャリアのルーツでもある。実に嫌味のないスマートな返しだ。

いまのイタリアでこのようなユーモアを感じるやり取りは存在しない。かろうじてジム・パロッタ前会長が劇場型のショーマンだったが、それでもローマを手放す近年では舌鋒は影を潜め、最後は痴呆症が疑われるほどローマへの関心をも忘れ去った。
一方で、フリードキン親子はまだロマニスタに対して、まだ正式な挨拶をしていない。派手なパフォーマンスを好まないタイプなのかもしれないが、彼らの所信表明を早く聞きたいというロマニスタは多いだろう。

しかし、時代は変わっても、会長が望むのはスクデットであって欲しい。この街の狂熱にやられたならば、決して4位やチャンピオンズリーグ圏内では満足できないはずだ。

ローマは泣かず、これからも泣くことはない。なぜならば、それは弱者の行為であり、強者は絶対に泣いたりなどしないからだ。

我々もこの言葉を忘れずにいよう。

それでも、1991年1月19日にディノ・ヴィオラが亡くなったとき、強者だったロマニスタたちは誰もが涙を流したのだという。

Sempre Forza Roma.

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